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2007年12月

バベル

違和の連続。

モロッコの片田舎から始まるこの映画は、「違和の風景」ともいうべき、非日常性の連続によって構成されている。

登場する人物は、平凡な生活から一歩進んで違和感を持ちながら生きているか、何かの拍子で違和の中に落とし込まれるか、なのである。

まず、日米の夫婦と親子は、極めて高踏的で高等的で高度な悩み(違和)を解消しようとしている。彼らが与えた事物が、モロッコとメキシコの親子らを違和におとしめる。メキシコの家政婦に預けられた子供たちも、砂漠の中の違和(危機)の中におとしめられていく。

極めて高踏的で高等な理由により菊池凛子の母親は自殺したらしいし、夫婦の絆を深めるという高踏的理由によりブラッド・ピッドとケイト・ブランシェットはモロッコに旅に出る。高度で高踏的な理由により菊池凛子は裸にならなければならないらしいが、プリミティブなモロッコの兄弟はおもしろ半分で銃を撃つ。菊池凛子と米国の夫婦の子供に危害はないのだが、プリミティブなモロッコの兄弟の兄は警察に撃たれて死んでしまう。

「違和」の連続なので見ている我々は相当戸惑うし、その戸惑いと、ある程度予想できる結末が、見る者を釘付けにして離さない。

日常の中に潜む危機が一気に顕わになる、そんなふうな映画だともいえるだろう。

監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥはたぶん、寡作な作家なのだろうが、私としてはパトリシア・ルコントとともに、佳作を撮れる監督として記憶するつもりだ。

「パリ・テキサス」(ヴィム・ベンダース監督)のライ・クーダーのスライドギターを彷彿とさせるギターとズームアップの多用、肉体を投げ打つ寝ころぶシーンの多さ。

米国で育ち、映画学校を卒業しハリウッドで経験を積んだ監督には決して撮ることができない映画だ。そういう意味で貴重な映像作家であるし、同監督の作品をもっともっと観たいと思う。

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ザ・ロック

マイケル・ベイ、1996年の作品である。同監督の「アイランド」(2005年)がB級映画と言われる一端が、この映画を見るとよくわかる。

前半は良い。ショーン・コネリーがこの映画に渋い味付けをしているし、ある種の「重さ」を醸し出していて、本格的な娯楽映画を見ている気分にさせられる。特に髪を切って紳士になるシーンなどは極めて映画的だし、バスルームの洗濯ひもを小道具として使うところなど、本当に長い刑務所暮らしをしてきたのだなというリアリティがあって引き込まれる。サンフランシスコの坂道を使ったカーチェイスも、とてもおもしろいし、一級のエンターテイメント映画として楽しむことができる。

がしかし、アルカトラズ島を占拠した海兵隊と人質を救う特殊部隊がドンバチし、ニコラス・ゲイジとショーン・コネリーの二人が生き残ったあたりから、単なるカンフー映画、ジャッキー・チェーン主演のアクロバット映画のようになってしまうのである。

化学兵器を積んだロケットも安っぽいし、化学兵器自体がおもちゃのスーパーボールに見える。ラスト近くにニコラス・ゲイジが自分の体を刃物で突き刺す理由がよくわからないし、ラストシーンの、教会の椅子から取り出す弾丸のようなものからフィルムを取り出すシーンも何のことなのかよくわからない。このあたりはマイケル・ベイの何かに対する思い入れなのだろうが、どうも観客にはそれが伝わらない。単なる遊びなのかもしれないが。。。

B級映画とは、監督の思い入れが強くてそれが観客にうまく伝わらない映画のことを言うのかもしれない。

フランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、トニー・スコットそしてスティーブン・スピルバーグのように米国映画を背負って立つ映画監督としてマイケル・ベイには育ってほしいと思うのは私だけではないと思う。一級の、王道を行く娯楽大作を撮れる監督になれるのは米国にはあまり多くいないのではないだろうか。

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